昭和44年02月06日 夜の御理解
「ここには信心の稽古に通うて来るところ」と仰りますけれども、何の稽古でも習おうとする者、教えようとする者、そこに初めて稽古と言う事が言えるのです。成程自己流と言う事もあるのですけれども、それはいかにもまあ授業料がいらないとか、時間がいらないとかと、自分の都合の良い時に出来るとかと言う事も言えますけれども、それはやはりそういう、やはりここに信心の稽古に通うて来て、その信心の基礎というか、その道というか、そういうものを体得して。
それがなお、まあ予習復習されると言う様な稽古ぶりになるために、どうしても教えようとする者、習おうとする者の心が交流する、心が通わなければ本当の稽古はできません。ですからまずそこんところをひとつ、通うことのために心を砕くというか、どうしたならば教えて下さる人、習おうとする者との心が交流するような中に稽古ができるかということを、本気でひとつ考えてみらなければいけない。
只、おかげを頂くために一生懸命参って来よる、それもやはりそのことを通して稽古ができておるのですけれども、やはり本気でおかげを頂くためにお参りをして来るというところから本気で稽古に通うて来るという姿勢をとらなければ交流することがないと、とにかくおかげのことが頭ん中にいっぱいあるのですから教えられておっても交流しない、通わない、本気でそのことを習おうとする姿勢が大事なんですね。
今日は高松和子さんところのご主人の15年の式年祭。私御用をさして頂いたんですけれども、奉仕させて頂いてから、本当に何と言うですか、骨の折れないというか、楽な式年祭、まあ喜ばしい式年祭じゃったと言う事でございますね。何と言うですかね、やはり安心の御霊というか、喜びの御霊というか、そういう喜びの御霊、安心の御霊というそれが15年間の間、御霊は御霊なりに辛苦もあれば修行もあった。
そして15年経って、15年の式年を受ける今日、喜びの御霊として安心の御霊、勿論その喜びとか安心とかというものは限りはないのでございますから、これからもいよいよ深い広いものになっていかなきゃなりませんが、それがねそれが例えばそのお祭りを仕える家内、子供または親戚というような人達の信心の程度がね、御霊様に通うておるということが私、今日の御霊様のお祭りのまぁ言うなら特徴のような感じでした。
例えて言うと、今和子さんはご承知のように東京でおかげを頂いておる。娘さんの順子さんはここで茂さん所でおかげを頂いておるんですけど、今高校を卒業して電電公社の試験を受けまして何十人かの中の6名ですか、大変難しそれももう本当に神ながらに、大体は壱岐か対馬の方へ行かなければならないと言う事が条件であったそうですけれども、補欠であったためにですね、その補欠の方2人か何かが、甘木の方に行かれて。
しかもその甘木の方が田主丸の方にあるというふうに、もう願ってもないまあ願ったり叶ったりというようなおかげを頂いておるね。そう言う様なまあ一家をあげての喜ばしい事柄、または高松親子の上にも、兄弟達にそのような思いをかけて先の先のことまで考えて下さってある、そういう働きが信心のおかげとして頂けておる。そこになら高松親子の、言わば安心もそこにあるという、その安心が、その喜ばしいことがそのまま御霊様へ反映しておると。
もちろんこちらがそういう安心のおかげを頂いておるから、喜びのおかげを頂いておるから、しかもその時を同じゅうして御霊様の15年の式年祭を奉仕さして頂いた、だから御霊様が助かっているんだ、安心しておるんだ、喜んでおるんだと言う事ではなくて、それにそんなら和子さんなら和子さんも15年間の、言わばある意味でのかん難辛苦様々な修行、この子1人のためにという親の一生懸命の思いが成就の芽が出てきた。このままいってくれりゃ安心だと言う事になってくる。
それが御霊様においても、15年の式年を受けるまでの様々な御霊としての修行をお受けになられて安心の御霊として喜びの御霊として、今日のお祭りを受けられた。交流しておる、そこで私、そこで言えれることはです、私共の信心がですね、本当におかげを目指しての信心、おかげを頂いての喜びというのではなくて、本当に信心の喜び、信心から生まれてくる安心、まあ今朝の御理解で言うなら、どのような場合でも、平日の通りといったような信心、
いつも平日のとおりと言う様な心を開かして貰う事の信心がですね、頂ける時にそれがなら私共の繋がりであるところの先祖の御霊にもそれが通うていくことを今日は私は感じますね。ですから皆さんがお取次を頂いてお願いをしておかげを頂いたと、商売が繁盛しております、健康のおかげを頂いておりますというだけの喜びはです、それは御霊様にまでは通わないね。けれども信心の喜び、信心から生まれてくる安心、いわゆるどのような場合でも平生心というか。
平日の通りと言う様な信心を頂くためには、とてもとても日々のやはり信心の稽古がなされなければできることじゃないね。そういう稽古をさして頂くためにはです、教えられる者または教える者とのそこに交流がね、なされなければ本当の稽古はできない。そしてそこからいつもどのような場合でも平日のとおりと、まあ心はいつも、言うならば平穏に穏やかになる。どのような不安な事態に、普通から言うたら心配なような時であっても、平日のとおりのおかげが頂けれるような状態を目指しての信心。
そういう信心でなからなければ、私は霊肉ともに助かっていかないというか、先祖にまで及ぼすような働きと言う事になってこないと思うね。どうぞひとつ目指すところはどのような場合でも平日の通りと言えれる、思えれる、ひとつ信心を目指して、お互いが信心の稽古をしなければいかん。それには私稽古の態度というかね、姿勢というものがです、どうしたならば教える者と通うかというところに私は焦点を置かなければいけない、どんなに素晴らしいものが教える者の方から流れていっても。
それがまた通わなかったら、皆受け止めることができないでしょう。他んところに流れていって、そこに教える者の歯がゆさ、または習う者の馬鹿らしさというものがあるわけですね。そのところにぴたっとこういくおかげを頂くためにもひとつ、そこんところの、いわゆる教える者、教えられる者の心の交流がね、いわゆるなされておらなければです、本当の信心の稽古はできない、なるほど我流でもできます。と言う人はそれまでのことですけれども、我流ではどこまでもやっぱり我流なんです。
どうぞ。